孤独を愛する男

どうも、こんにちは〜

 

尚平です。

 

今日も秋晴れで清々しい陽気です。なんてことでしょう?太陽の光が眩しいです。

 

僕は今日は、コロナ禍で久しく会っていない友達と食事をしに出かけてきました。久しぶりに他愛もない会話をして楽しかったのですが...

 

ですが...とついてしまうのには理由があります。元々友達と遊んでいる時からそうなのですが、統合失調症(持病の精神疾患)の陽性症状である幻聴が酷く、そればかりに気を囚われ途中から会話がしにくくなってしまったのです。

 

本当に残念なことです。もう半年以上も会っていない友達と久しぶりに会えたこと。それは僕にとっては特別な事であり、大切にしたい時間です。それなのに、病魔はまたしても僕らに猛威を振るいます。

 

友達の地元にあるマクドナルドで昼食を食べながら話していた時の事です。メニューから食べる商品を選んでレジで注文し、会計を済ませ番号が記載されたレシートを貰いました。しばらくすると、店員に番号を呼ばれ、先に呼ばれて移動していた友達の後を追って席に着きました。その時は全く警戒をしていなかったのですが、よくあることかもしれませんが隣の客の話し声がうるさかったのです。

 

統合失調症の陽性症状である幻聴の症状の1つとして、被害関係念慮などがあります。僕の周りで話をしている人たちが居たとします。その人達とは面識がありません。当然僕のことなんて知るよしもありません。ですが、この病気だと、その常識が一切通用しないのです。どうしても、周りの誰かが笑っていると「また自分が笑われている!」「また話のネタにされている!」と捉えてしまうのです。理屈ではありえない事だとわかってます。ストーカーでもあるまいし、僕の噂話をしていて楽しいとも思えませんし、何より本人の前で悪口を言うなんて常識から逸脱しています。とてもまともな人間がすることとは思えません。

 

しかし、この病気は、脳がそう勝手に判断してしまい、どんなにありえない妄想だとしても真実だと思いこんでしまうのです。

 

僕はこの病気のせいで、大変苦労をしてきました。長くなるので割愛しますが、今日の昼にも似たような事が起こってしまったのです。

 

隣の男と女2人がべちゃくちゃうるさく喋っていて、それが幻聴じゃなくても鬱陶しいのにマシンガントークで全然止まらないんです。そのトークに気を囚われて本題である友達との世間話があまりスムーズに進みませんでした。ハッキリ言って悔しいです。病気の症状である可能性が高い以上、無闇に事を荒げることはできません。何より、友達を不快にさせたくなかった。その一心で黙って耐えてました。でも、その忍耐も見透かされていたのでしょう。友達も30分くらいで「行きますか」と一言良い、僕らはマクドナルドを後にしました。

 

こういう事がこの統合失調症と言う精神疾患では頻繁に起こります。その度に、人間なんて嫌いだ!うんざりだ!と思います。誰からも愛されず、愛されてると信じることも難しい病気だから、大変です。

 

こういう事があると、やっぱり一人でいる時が一番落ち着くなあと考えたりもしてしまいます。人間関係を全てリセットして、無人島で一人優雅に暮らしてみたい。そんなことさえ、考えてしまうのです。まあ、もちろん、そんな単純な話じゃないってことは分かってます。過去は変えられないです。でも、僕の名誉とか愛とか自分らしさとか守れたら、どんなに素敵かな?と無意識に考えてしまうのです。

 

孤独を愛する。孤立でも疎外でもなく、心がひとりぼっちでも苦だとは思わず愛し抜けたら、きっと今ある不幸も乗り越えられるでしょう。

 

僕は学生の頃は集団から孤立していました。特に嫌われてたとかいじめられてたとかではなかったのですが、ただ単に一人でいる事が好きだったのです。誰かと一緒に居ても疲れるだけだし、気を遣ったり気を遣わせたりする事を煩わしく思っていました。そんな時でも辛くなかったのは、僕には家族が居たからです。家族とだけ繋がっていればいい、例え孤独になったとしても生きていける。そう考えていたのです。

 

しかし、大人になってから価値観は変化していきました。誰かと話していないと繋がっている気がしない。誰かと繋がっていないと自分に価値はない、と自信を失くしていたからです。無理もありません。統合失調症の陽性症状である幻聴や被害妄想で散々罵詈雑言浴びせられてきて、屈辱的で酷い仕打ちも受けてきました。傷ついて夜中一人で枕を涙で濡らす事もよくありました。正直、悔しかったです。

 

でも、そんな時でも孤独を愛さなくてはいけません。人間は誰しも皆孤独です。生まれてきた時から、死ぬまでずっと心は孤独のままです。しかし、だからこそ、自分の内面に潜む孤独と向き合い、上手に付き合っていくことで、人は己の中にある愛を知るのではないか?とも思うのです。

 

「愛とはなにか?」と問われても、僕にはよくわかりません。「幸せとはなにか?」と問われたら、愛している人から愛されているとき、と答えられるはずなのに。何故愛とは何か誰もわからないのでしょうか?きっと、運命が謎である事と同じように、きっと得たいの知れない見えない感情、現象を人は信じにくいのかもしれません。宗教に偏見を持つ人がいるのもその影響でしょうね。偶然、必然など環境的な要因で生み出さられる愛があるなら、きっとそれは真実の愛ではない。僕はそう思います。

 

愛を語るには知らない事が多すぎますので、これ以上の記述は止めておきます。

 

きっと孤独を愛していると言う人は、孤独である自分を認めてる、と言うことなのでしょう。孤独な人生を歩む事を覚悟し、信じ抜いている。だから、孤独を愛している人は強い人が多いのかもしれません。

 

僕の場合、孤独しか選べる道はなかった。ただそれだけの事かもしれないです。今も集団の中にいても、どんなに歩み寄っても、自分は孤独であると言う考えから抜け出せません。本当は孤独にはなりたくなかった、その未練があるから、うじうじと悩んでばかりなのかもしれないです。僕はまだ「孤独を愛する」と言う領域に達していません。まだまだ成長しないといけないですね。

 

長くなりました。今回は伝わりやすい文章を意識してみた結果、長くなりすぎました。すみません。ここまでこのブログ記事を読んでくださり、ありがとうございます。

 

また気が向いたら順次更新していくので、良かったらお付き合いのほど宜しくお願い致します。

 

ではでは、今日もこの辺で。

 

さいなら〜